Published 2017-01-25 Updated 2020-06-29 View 946
我們使用韓國旅遊組織的公共數據提供各種信息,例如網站,聯繫信息,使用信息和社稷路9キル15-32 鍾路区 黄鶴亭(황학정)的位置(地圖)。
黄鶴亭(ファンハクチョン)は、元々、光武2(1989)年、朝鮮王朝第26代の王・高宗(コジョン=在位:1863~1907年)の御名により慶熙宮(キョンヒグン)会祥殿(フェサンジョン)の北側の塀の近くに建てられた、弓術を練習するための射場にある建物・射亭(サジョン)でした。
1922年、京城中学校建設のため日帝の手により慶熙宮を取り壊し、慶熙宮内の建物が民間に払い下げされた際、黄鶴亭は社稷公園(サジクコンウォン)北の登科亭(トゥングァジョン)があった跡地である現在の場所に移築されました。
現在、黄鶴亭がある社稷洞の登科亭跡地は、大韓帝国末期まで弓術の練習場として有名な場所でした。
登科亭は、景福宮の西に聳える仁王山(イナンサン)の麓の玉洞(オクトン)にあった登龍亭(トゥンヨンジョン)、三清洞(サムチョンドン)の雲龍亭(ウニョンジョン)、社稷洞の大松亭(テソンジョン=太極亭[テグクジョン])、楼上洞(ヌサンドン)の風嘯亭(プンソジョン=白虎亭[ぺコジョン])とともに仁王山の麓にある弓術の練習場・西村(ソチョン)五射亭(オサジョン)と呼ばれていました。 五射亭などソウルに存在していた射場は、日帝強占期(1910~1945年)に入り、伝統武術が禁止され、次第になくなっていきました。
しかし、黄鶴亭の射場だけは全国に知られるほど有名で、植民地支配が終わった1945年の光復(クァンボク)以降も射場として使われていました。
その後、1950年に勃発した6・25戦争(韓国戦争=1950~1953年・休戦)により建物が破壊され一時、弓術もできなくなりましたが、現在では再び建て直され、弓術の腕を磨く射場として利用されています。弓術の的は前方およそ145mの場所に設けてあります。 黄鶴亭は1977年、一部施設の補修工事を行いました。
黄鶴亭は仁王山の東側の麓に、南東の方向を向いて建てられています。正面から見ると4間の内、東の1間は西の3間よりも一段高い高殿の板の間となっており、東端の柱の基礎部分の礎石には長礎石(チャンチョソク)を据えています。
建物正面の西側から2間目の軒下には「黄鶴亭」と書かれた扁額がかけられています。 北端の1間の空間はオンドルとなっており、残りの板の間はすべて井桁状に組んだ板の間となっています。
柱と柱の間の距離は、建物正面の西側の左手から右手へ順に、2763mm、3,051mm、2,820mm、2,793mmとなっており、側面は正面側から建物後方に向かってそれぞれ2787mm、2820mmとなっています。
礎石の高さは290mm、長礎石の高さは970mmで、大梁までの柱の高さは2670mmとなっています。
建物は一段のみの長大石の基壇の上に四角の柱を立て、正面及び東側の側面の柱には七言絶句の柱掛け・柱聯(チュリョン)がかかっています。
正面外部の柱と柱の間には四分割の戸・四分閤門(サブンハプムン)を取り付けており、内部は井桁状に組んだ板の間や垂木がむき出しになった天井の造りとなっています。
建物は板状の束柱で棟を支える無高柱の五梁家の構造で、桁には丸太桁を使っています。
亭子としては比較的規模が大きい建物ですが、簡素朴な構造で造られています。
建物の裏手には泉があり、その後ろの岩には黄鶴亭八景を詠った詩が刻まれています。
建物の右手に当たる北東の方には六角形の形をした屋根の東屋・閒天閣(ハンチョンガク)があり、その西の裏手には鉄筋コンクリート造の射友会館(サウフェグァン)があります。
+82-2-738-5785
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ソウル特別市 鍾路区 社稷路9キル15-32